専念寺の歴史

 真宗大谷派向富山専念寺は、元禄7年(1694)下谷村の大火で全焼し、古い記録、過去帳などを焼失して、開基・開山のことなどわかっていない。
 元禄11年(1698)9月に、江戸浅草の善照寺から僧伯という僧が入院して、本堂や講堂を再興して中興開山となっている。宝永2年(1705)秋元喬朝が川越へ転封のとき、菩提寺であった泰安寺の護摩堂を譲り受けて本堂としたが、昭和24年の谷村町大火により、惜しくも多くの寺宝とともに一切の建物を焼失した。
 しかし、本尊阿弥陀如来、親鸞聖人御筆像、過去帳は現存している。現在は本堂、庫裡、鐘撞堂が再建されている。また、本堂裏の庭園は、市内有数の名園である。

 森島其進(もりしま きしん)の基

 森島其進は、宝暦11年(1761)下谷村で九条家の御用を許された絹問屋「嶋屋」の森島利八の長男として生まれ、幼少の時から学才に優れ、昌平校に学び漢学に精通し、書は御家流の奥義を極めた。家の事情で其進は中途で郷里に帰って家業を継ぎ、商売は盛んになり富を得たが、学問の道を歩むため、家を弟の理八にゆずり、今の裁判所の敷地内に「朋来園」という私塾を開いて子弟を教育した。
 文化11年(1814)甲府勤番支配松平定能のもとで『甲斐国志」の郡内地区編さん主任を命ぜられ、私財を投じて完成した。また、天明7年(1787)の飢饉で、人々が飢に苦しみ、餓死する惨状をみて、米390俵を出し、谷村陣屋前で、粥を炊き出して多くの人命を救った。このような其進に対して人々は、「なさけの嶋屋」と俚謡にまで唄って、永く語り伝えたという。
 森島共進の基は、昭和50年9月25日市の史跡に指定された。

真宗大谷派 向富山 専念寺
山梨県都留市中央四丁目3番6号
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